ナイトフッドに呪いがかかっていたとするなら、見事に霊験が現れた。
ナイトフッドはまさにそのレースでひどい傷を負い、見たところ再起不能の馬として、足を引きずりながらAをとらえた。
ついに資金が完全に尽きると、Aは雇い人たちを集め、払えるものなら払いたいが、どうしようもないのだと訴えた。
そういう状況でも馬の面倒を見る人間は必要だったので、Sはそのまま仕事にとどまった。
そんな時、ナイトフッドという箸にも棒にもかからない駄馬が、彼の目厩舎に入ったからだ。
この馬を気に入っていたAは、とても安楽死させる気になれなかった。
しかしナイトフッドは餌を口にすることを拒承、痩せ衰えていった。
Sはこの馬に惹きつけられた。
2か月無給で働いたところで、SはAにひとつの話をもちかけた。
ナイトフッドを譲ってもらったら、未払いの給料は帳消しにしてもいい。
Aは最初、あの馬は役立たずだといって断った。
Sはなおも粘り、ついに願いを叶えた。
そしてナイトフッドを連れて姿を消した。
馬は長期にわたって消息不明となり、競馬関係者のあいだでは、どこかで死んだのだろうと思われていた。
十か月後、ナイトフッドを伴ってSがティファナ競馬場に姿を現し、馬をレースにエントリーした。
競馬の世界では、たとえ売却競馬であっても、7歳以上の古馬が勝利することはめったにない。
ナイトフッドはその時十歳だった。
だが古くからのファンたちは、ふたたびその姿が見られたことに狂喜して、馬券売り場に押し寄せた。
スターティングゲートまで歩くあいだに、オッズはどんどん下がった。
ナイトフッドは勝ち、このカムバック劇は伝説となった。
才能を見抜く目があるAは、あらためてSに調教を依頼した。
そうしてSの手にゆだねた一群の競走馬を、ワイオミング州都シャイァンの小競馬場に送り出した。
この時出走した馬たちは、30戦して29勝した。
おそらくどんな格付けのレースでも、これを上回る戦績をあげた厩舎は存在しないだろう。
シアトルの競馬場で負けがこんでいた別の馬群に対して、AはSを派遣し、調教にあたらせた。
この時もSはAの不運を完全にひっくり返した。
中西部の草原地帯や南部の山岳地帯での放牧生活から、通りにいたる道のりで、だがSは、旧態依然とした調教師とははっきり一線を画していた。
因習も、むや承やたらな訓練も、迷信的な儀式も彼には無関係だった。
彼の叡智は、フロンティアの生活でたっぷり試されていた。
Sは個々の馬を、独自の個性をもった存在としてあつかい、自分自身の判断や経験に従って世話をした。
馬たちは次々に才能を開花させた。
Sがあんなにも寡黙だったのは、おそらく、いつもじっと耳を澄ませていたからだろう。
馬は最小限の動きで語りかけ、Sはそのすべてを見聞きした。
調教後の馬のほてりを取るために、ゆっくりと馬房長屋の周りを歩かせる″熱冷まし役″たちは、Sが床にしゃがみこみ、まっすぐ前を見て、頭のなかで馬の分析をしている姿をよく見かけた。
彼らが厩舎を回って元の場所に戻った時でも、Sはさっきとまったく同じ恰好でそこにいる。
時には馬の観察に没頭するあまり、何時間も微動だにしないこともあった。
何週間もぶつつづけで馬たちのそばを離れず、レースが始まっても、スタンドに下がろうとしないこともしばしばだった。
彼はその辺に転がっているもので独創的なトレーニング器具をつくり出し、手製の湿布剤を調合T・Sは神秘的ともいえる馬との交流を養ってきた。
彼は馬の心を知り、そのゆさぶり方を知っていた。
馬の身体を知りつくし、それがどう感情や興奮を伝えるかを知っていた。
そして彼の手は、苦しむ馬たちにとっての特効薬だった。
その時代、競馬は因習と模倣、迷信と民間療法でがんじがらめになっており、まっとうな調教師ですら、さかりのついた牝馬を抑えるために、バケツのなかに一セント硬貨をいくつも落としてふたり、凶相と見なされていた左に垂れるたてが承を、なんとか右に垂らそうと苦心惨慣したりしていた。
多くの馬を、それまでの常識は絶対にやってはいけないといわれていたやり方で完調に仕上げた。
ストップウォッチも一応もっていたが、左のポケットに入れっぱなしだった。
彼には自分の目で馬のペースを判断する超人的な能力があり、気が散るようなことをされて、動きのニュアンスに目が届かなくなるのをなによりも嫌がった。
「今ふうの時計よりも、わしは自分の目を信用したい」とは彼の弁である。
「時計は馬から気を逸らせる。
時計はもっとるし、ちゃんと動きもするが、目のほうがずっといい」Sにとっての調教は、長く、もの静かな会話だった。
自分のやっていることを理解されないのが、彼は歯がゆくてならなかった。
「馬の言葉を理解すれば、話なぞ簡単にできる」と彼は語っている。
「馬は生まれた日から死ぬ日まで、これっぽっちも変わらない・・・変わるとしたら、それは人間のあつかいのせいだ」。
永遠に再起不能になる動物はいない、とSは心の底から信じていた。
どんな馬でもよくしてやることはできる。
彼はたったひとつの原則に沿って生きていた「おのれの馬を知れ.一頭一頭が別個の個性であり、ひとたびその精神と心に到達できれば、ほかでは御しがたい馬が奇跡を起こすことも珍しくないのだ」。
牧牛に用いる馬、野生馬、ショウに出演する馬くたびれた競走馬である。
そうした馬たちとの経験のすべてが、Sが完壁な調教師に成長するための一助となった。
そして今、彼は自分にぴったりの馬を待っていた。
メキシコの空に初春の太陽がかかる1934年3月21日、″十トン″Aは200キロ近い巨体を専用のセダンの巨大な後部ハッチから押しこみ、シャイアンに向かって出発した。
レースが開催されていたのはメキシコ中部のアグアカリエンテ競馬場で、Aはそこからワイオミングに引き返し、今度は家畜の貸し出し業に精を出す予定だった。
彼は北に向かい、ワイオミングの州境を越えた。
するとシャイアンから22キロ離れた寂しい道でタイヤが破裂し、ハンドル制御が不能になった車は、そのまま溝に飛びこんだ。
救出に駆けつけた人々は、車の残骸のなかで、胸と頭に重傷を負ったAを発見した。
2日後に彼は死んだ。
A厩舎は散り散りになった。
Sはシアトルのロングエーカーズ競馬場に、単身姿を現した。
Aが遣した馬を何頭か、ごく短期間だけ調教したのち、彼はロデオショウの馬の曲乗りから調教師に転じたHという老調教師の片腕として働きはじめた。
その仕事もまた短命に終わった。
Wが調教していた馬のオーナーが、ほどなく競馬から手を引いてしまったのだ。
またも失業の憂き目にあったSを気遣い、その馬主は彼にひとつの贈り物をした。
千500ドルで売却競馬に出されたオライリーという古馬である。
だが、それはなんとも怪しげな贈り物だった馬は脚を引きずっていたのだ.ナイトフッドの時と同じく、Sは腰を据えて、この馬の治療にとりかかった。
そして回復期間を終えると、すっかり健康になったオライリーを競馬場に復帰させた。
馬は次第に勝ちはじめ、格付けの上のレースで走るようになってからも、ウィナーズサークルに立ちつづけた。
1934年後半のある時、T・Sはアグアカリエンテ競馬場に厩舎を買った。
所属する馬はオライリー一頭きりであった。
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